千葉サンクチュアリ教会(三代王権・こころのサンクチュアリ教会)

文亨進御家庭を地上の真の父母・三代王権、勝利した再臨主二代王とするイエス・キリストを信じる教会です。個人が勝利したイエス・キリストを体にまといて実体のキリストの体、キリストの花嫁となり、各家庭が幸せな家庭教会になることを目指す教会です。三代王権・こころのサンクチュアリ教会の千葉教会です。一緒に天のお父様を賛美しましょう。

多くの聖句で、イエス様は自分の福音が神様の王国の建設だと話しています。


天一宮の天気は少し曇りますが、比較的とても暖かくて穏やかな天気になります。
詩篇19章が、自然に思い出される日です。


詩篇19章
1 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。
5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
6 それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。


勿論、ほとんどの詩篇が美しいが、この詩篇19章は、本当に我々が登山をする時、瞑想をするのに、とてもよい聖句だと思います。
ぜひ皆様がこの詩篇を山登りをする時、実践してください。


◆今日のリマはテモテへの第2の手紙、3章16節です。
16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 


聖書、神様のみ言葉は神様の聖霊に感動されて、一つにまとめられた本です。
人間たちが書いのですが、神様の聖霊で感動し書いたものです。
そのため、人間が書いたものですが、人間が書いたものではありません。
イエス様は100%人間ですが、100%神であるが如くにです。
すべての聖書は、神様の感動でできたということは、本当に美しい言葉です。
その聖句は本当に重要です。


主流キリスト教では、すべての福音がイエス様が生まれ、十字架にかかって復活した、で終わりますが、主が言われた神様の王国のみ言葉を見ると、それ(王国)のために来られたと言っておられます。
主は自分の福音、ユハンゲリオン(福音のヘブライ語)というのは、神様の王国のことだと言われました。
ヨハネの黙示録でも、鉄の杖を持って自分の王国を治めると言われたし、自分の王国に住む人たちに鉄の杖の権限を同時に与え、主と共同相続人として、共に治めると話されたのです。


ヨハネの黙示録20章では、再び来られた再臨主が火を天から降ろすと言います。
鉄の杖は悪を処断して、ゴグとマゴグで起き上がって主に対抗する邪悪な者たちを、一掃してしまう力があるというのが出てきます。
そうです。鉄の杖は、これほど強力な破壊力があるのです。
それで、王たちの権限でこれまで、歴史的に極限されてきたというのです。
そして主流キリスト教たちは、そのような聖書のみ言葉が無いかのように、主張することはできないというのです。


イエス様はルカ福音書4章43節に
43 しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われたのです。


私がこの事のために(神様の王国を立てることを人々に伝えるために)送られた(神様から)とおっしゃるのです。
イエス様だけが、ご自分の来られた理由と自分の福音が何かを、決定できる権限があるというのです。


マタイ福音6章9~10節を見ても
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように、
10 御国がきますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。


もちろん十字架で救援があると言うパウロの書簡のみ言葉が、イエス様の直接的なみ言葉より、さらに権威があるということではありません。
パウロはイエス様の使徒の中の一人で、イエス様のみ言葉を信じ従う人だというのです。
パウロが生きている当時、パウロはローマの行政の下にいたので、パウロも神様の王国が地上王国というイエスのみ言葉(マタイ福音6章)を教えることは難しかったでしょう。
結局、全世界の国々は皆、神様の王国にならなければならないのです。


マタイ福音4章23章、マルコ福音書1章14節、マタイ福音9章35節、マタイ福音24章14節、マタイ福音25章34節
こんなに多くの聖句で、イエス様は自分の福音が神様の王国の建設だと話しています。
皆さんが聖書を直接読むと(キリスト教牧師たちが言う言葉を、そのまま聞くのではないというのです。)、主は自分の福音がどんなものか、神様の王国がどのように治められるのか、定義される権威がある唯一の方です。


鉄の杖!鉄の杖で治めるとおっしゃいました。
罪を土焼きのように砕き壊してしまうのです。
鉄の杖で審判の主でもあるが、同じに愛の主でもあられるのです。
ヨハネの黙示録20章には、神様の千年王国が建設されて千年が経ったのに、ゴグとマゴクでまた悪が海の砂のように集まったと言います。
こうした多くの悪が、千年王国で存在するなんて、本当に驚くべきことではないですか!


これは自由意志の問題です。
悪を選択することができるというのです。
神の王国でも、人間にはずっと自由意志があるのだから、神の王国にも殺人犯も強姦犯もあり得るということです。
しかしながら、一般市民たちが鉄の杖の権限を持っているため、神様の王国ではそのような人々は処罰を受けるのです。
(もちろん、正当防衛である時ですね)


先週日曜日のインタビューで、自分が銃で自分の身辺を守るビデオを見せたことを皮肉って、このようなビデオを礼拝に見せるのは、人々に恐怖心を与える否定的な行動ではないかと聞いたのです。
私はそれでこう答えました。
戦いに備えて戦略を立てて防御を学ぶことが、恐怖感を与える否定的な行動なのか、それともその選手がするべき卓越した選択なのかと、私は聞き返しました。
左派たちの論理は、本当に呆れるほどです。


今や天一国の憲法が公布されながら、神様の主権が、神様の王国の鉄の杖が宣布されました。
本当に驚くべきことではないですか!!
そして、これを人々が見ようとしないのは、本当に残念なことです。


皆さま、のどかな美しい春の天気が続いています。
その天気を詩篇19章と一緒に、外で楽しむことを願います。
神様と息を吸ったり吐き出したりしながら
アーメン アージュ