千葉サンクチュアリ教会(三代王権・こころのサンクチュアリ教会)

文亨進御家庭を地上の真の父母・三代王権、勝利した再臨主二代王とするイエス・キリストを信じる教会です。個人が勝利したイエス・キリストを体にまといて実体のキリストの体、キリストの花嫁となり、各家庭が幸せな家庭教会になることを目指す教会です。三代王権・こころのサンクチュアリ教会の千葉教会です。一緒に天のお父様を賛美しましょう。

マタイ福音7章7節を御利益信仰で見てはいけない。

7月5日の説教から
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今日の聖書リマは、マタイ福音7章7節です。


7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。



祈福信仰について非難する話も、私がみ言葉の中でしました。
祈福信仰(ご利益信仰)をする人たちは、マタイ福音7章7節を聞きながら、それが何が悪いかと言います。
この聖句を挙げるのです。
自動車を下さい、これを下さい、イエス様を信じれば10億を下さるだろう、私の願いを聞き入れてくださるだろうと祈るのです。
面白いことに、イエスを信じて10億をもらった人の例まで挙げながら、自分にも下さるだろうと思ったりもします。


しかし、そのような経験をした人たちは、神様がそうしなければならない義務があるから、そうされたのではありません。
神様はランプの中の妖精ではありません。
私たちの命令を聞く犬ではありません。
私たちが願って、私たちの言うことを聞かなければならない存在が神様ではないのです。


もちろん、神様は善良な父であられます。
しかし、そのどんな善の父も、子供がおもちゃを買ってくれと騒いで地面に横たわったからといって、子供に買ってあげないでしょう。
愛の父親ならばその子供に、'君は神様ではないんだよ、君がほしいものを君が望む時に、全部もらうことはできない'と話してあげるはずです。


飴を今すぐ私がほしいからくれと言う肥満症の子供に、飴を快く出す良い父親はいないでしょう。
それはその子供に良くないからです。
私たちを愛しすぎるために、私たちが望む度におもちゃを買ってくれて、私たちが食べたいたびに、キャンディーをくれないのです。


神様は私たちと関係を結ぶことを望んでおられます。
どのように関係を結ぶことを望まれるのか?
神様のみ言葉で、関係を結ぶことを望まれます。
信仰は、神様のみ言葉を聞くことで成長するからです。
だから、私たちは、聖書を本と言わずに"一人の人"と言っているのです。


私たちがある人と知り合って、関係を持とうとするならば、その人と時間を送らなければならないように、私たちが神様をさらに深く知りたいのなら、我々は神様のみ言葉ともっと時間を送らなければなりません。
何が好きなのか、何を嫌いなのかを、御言葉を通じて分かるようになります。
我々が欲しがる想像の魔法のランプの神様ではなく、み言葉の中で生きている神様と関係を結んで行くのです。


16世紀に、グーテンベルクの活字印刷術を通じて翻訳された聖書が普及(その前まではカトリック教会によって、ラテン語聖書だけを使ったために、一般の人たちは聖書を読むことができなかった)されたので、その前までは人々が直接読んでみ言葉と関係を持つことができませんでした。
ただカトリック教会の聖職者たちの口を通じて、み言葉を聞くことができました。
グーテンベルグが一番最初に印刷した本が、すなわち聖書でした。
活字印刷術で聖書が本として作られて普及されてから、やっと一般の人たちもみ言葉を直接読んで、聖霊から直接み言葉をもらって、直接関係できるようになったのです。


そのようなパターンで、米国というキリスト教の国が誕生するようになったのです。
神様から与えられた人権が構築され、自分のことがいくら惨めに見えても、片手には自分の土地と家族を守る農機具と銃を持って、もう片手には聖書を持って、米国の土地を開拓してきたのです。


グーテンベルグの活字印刷術が、神様のみ言葉、聖書をすべての人たちに読む機会を与える革命を起こしたと言えば、今の時代にはインターネットを通じてグーテンベルグが起こした印刷革命を上回る革命が起きています。
今日の分野の最も高い知識と情報が今では、インターネット上で距離と関係がなくネット上で共有できるし、哲学思想と政治見解が分かれて真実が普及されます。


今日のリマ「求めよ、そうすれば下さるだろう」で、私たちが考えるべきことは、我々が願うことに焦点するのではなく、人間に対する神様の心情に焦点を合わせなければならないということです。
これをくれ、あれをくれ、ということは、神様と関係を深く積むようになれば、望むものも変わるし、そんなことも望まないようになります。


真のお父様はいつも、神様を慰労する人にならなければならないと言われたのですが、真のお父様はいつも神様とあまりにも多くの時間を過ごされ、み言葉と一緒されたから、そう言われたのです。
わあ! その考えをしながら、私の体に悟りで鳥肌が立つようです。
私たちが神様と関係が深まれば深まるほど、私たちは我々の意がこの地に成されるのではなく、神様がみ意が行われまうよう、という祈祷が自然に出てくるのです。
神様、あなたが望まれることが成されるよう、祈り申し上げます。


もし酷い病気の人のために祈りをする時は、この人を必ず良くなるようにしてくださいと祈るのではなく、神様、この人が治ることがあなたのみ意なら、あなたのみ意に任せながらお祈りを捧げます。受けとめてくださいと祈るのです。
実に違う祈りでしょう。


私たちには、神様を左右できる権威のようなものはありません。
神様は私たちに、サタンに命令をできる権威を付与されました。
しかし、神様に命令を下しながら、私の意思を貫徹する権威は、絶対に許されなかったのです。


ある人たちは、ランボルギーニ(高い車)をくれと祈祷をするのですが、実は私は、なぜそんな車を望んでいるか、よく理解をすることができません。
私は車がそんなに好きな人ではないからそうかもしれないが(もちろんキングモービルが自分の一番好きな車だともおっしゃいました^^)、私には新たな武道の技術を悟ることや、自然で享受する家族との時間が、そんな高価な車よりいいです。


子供たちとブッシュクラフティングをする時、実は子供たちは不平を言います。
その時、親は子供たちを説得して、現実を少し悟らせる必要があります。
'君たち、ゾンビのようにビデオゲームを一日中して、人生に一つも役に立たない事をしながら半日を送っただろうと、現実を話して上げながら、それが君の人生に役に立つのか、それとも今外の自然に出て、家族の時間を持つのがもっと良いのだろうかと、大人気に怒らずに聞いたら、不満だけどそれでも'はい"と返事をします。


私たちは子供たちに、責任分担は神様が許された"パワー"だということを悟らせるようにして上げなければなりません。
子どもたちは、自分の親たちの祝福結婚生活が良くなければ、自分も自然に祝福結婚生活が悲惨で苦しいだろうと思います。
しかし、私が昨日韓国礼拝でも強調したように、我々に責任分担というプレゼントの"パワー"があるから、その悪の循環を打ち破って、素敵な神様の祝福家庭を成すことができるのです。
ある人たちが縛られている親世代の不幸な家庭生活が、私にも繰り返されるかもしれないその運命を、"責任分担のパワー"でその方向を変えるのです。
素敵ではありませんか!
神様はそんな責任分担を許されたのです。


私たちは完全な神様の前では、罪人たちです。
私たちがどのような義を神様の前に立てようとしても、神様はそれをご覧になりながら感動され、衝撃を受けられないというのです。
神様は私たちを創造した創造主です。


子供たちとの関係でも、親が責任分担をしなければなりません。
子供たちにとっては、5時に起きて日曜の敬拝をするのは、本当に苦しいことだと思うかもしれませんが、私には日曜敬拝を5時にすることはとても楽しかったです。
なぜなら、敬拝後に私たちは、その夜明けの朝からダンキドーナツ、ボストンクリームを食べられたからです。
もちろん、真のお父様が長くお話をされたりもして、体を何度も綯ったりしますが、今思えば、お父様が私たちと時間を一緒に過ごしたかったという思いに、おのずから頭が下がり、感謝の気持ちが湧きます。


日曜礼拝を一緒にするのも、家族の重要な伝統になるでしょう。
ある統計によると、毎週一緒に礼拝に出席する夫婦は、結婚の維持率が80%以上だそうです。
神様のみ言葉を一緒に聞くことが、こんなにも重要なことなのです。


私たちの多くの子供たちが、高校まではそれでも親と多くの時間を過ごしますが、左派養成所大学に行くと、完全に違う人になってしまいます。
マルクスの左派社会主義思想を受け入れて、文化サタニズムを受け入れて、妊娠中絶は女性の選択であるという考えを学び、それを何の罪悪感なく犯します。
多くの親は子供を教育する際に、ある政治的な問題と判断をめぐって、どう考えるかを全く考えません。
中絶をめぐって、政治的な問題をめぐって、どのようにそれを分析して、神様の観点で考えなければならないのか、考えません。
キリスト教的な弁証法で、神様のみ言葉を説明してあげないのです。


全ての親が、初めて親になった時、下手でうまくできないのは当たり前です。
しかし、親になる前に親になることを準備することができます。
私とクイーンも一生懸命に親になることを勉強し準備して、知恵を、経験のある人たちから助言を求めました。
保守の方の教育法とかキリスト教的な育児法を研究して、勉強して適用しようとたくさん努力しました。


もちろん、完璧な親はいません。
そして、そのように良い両親になろうと努力するからと言って、子供たちが100%よく育つという保障がないというのも事実です。
しかし、そうすることで、私たちは子供たちを神様のみ意に合わせて育てられる可能性を高めます。


子供たちと有意義な本を読んで、一緒に討論をして、難しい質問を受けて一緒に成長するのは、未来の子供たちが結ぶ結実を巡って見ると、どんなに良いことなのですか?
仕事を終えて家に戻って来て、コンピュータゲームやテレビを見ている子供たちに、'今日をどうだった?"と聞くより、はるかに良いことではありませんか?
私たちに親としての責任分担があるのは、我々が人間としての価値を持つことを意味するというのです。


私たちが本当に小さくは私の周辺を整理して、朝起きて布団をたたむ責任分担をしながら、私たちは我々の人生で少しずつ責任を実践して、前に進むことができるのです。
私たちが我々の人生で私達の責任分担を行いつつ、他の人たちも責任分担を遂行できるように手助けするのです。
他の人たちの責任分担を代わりにして上げるといって、その人が責任分担をできるようになるのではありません。


子供たちがもし、ガラスのコップを割ったとしたら、クイーンも行ってそれを危険だと言いながらやってあげようとするのですが、私がこう言います。
してあげないで、子どもたちに説明しながら子供たちができるようにしなさいと言いました。
'大きなかけらは先に破れない袋に入れて、見えないようだけどあるかもしれないガラスの破片を、雑巾で拭き取って掃除機で吸引しなさい'と、説明するように私が言いました。


私が武道家で責任感がある行動を、もし悪い人が私の子供たちを害そうとしたら、私だけがその悪い人に対抗して戦うのではなく、子供たちにも武道の訓練をさせて、子供たちもその悪い人に一緒に対抗して戦えるように、子供たちの力を育ててあげるのです。
それが良い父親がやらなければならないことではないでしょうか?


もちろんお母さんたちの、子供たちを愛する心は十分に理解します。
しかし、お母さんが子供たちのためにやり続け始めると、その子供たちは何もできない人になってしまいます。
それは真に子どものための親ではないでしょう。
今日のリマのように、私たちの望みが叶うようにと祈祷する人ではなく、神様のみ意がかなうことを願って祈祷する我々自身になり、またそのような家庭を作りましょう。