千葉サンクチュアリ教会(三代王権・こころのサンクチュアリ教会)

文亨進御家庭を地上の真の父母・三代王権、勝利した再臨主二代王とするイエス・キリストを信じる教会です。個人が勝利したイエス・キリストを体にまといて実体のキリストの体、キリストの花嫁となり、各家庭が幸せな家庭教会になることを目指す教会です。三代王権・こころのサンクチュアリ教会の千葉教会です。一緒に天のお父様を賛美しましょう。

主は道であり、真理であり、生命を詩編66章に見る。。

2018年.7月16日の説教より


今日の聖書リマは詩篇66章です。


1 全地よ、神にむかって喜び呼ばわれ。
2 そのみ名の栄光を歌え。栄えあるさんびをささげよ。
3 神に告げよ。「あなたのもろもろのみわざは恐るべきかな。大いなるみ力によって、あなたの敵はみ前に屈服し、
4 全地はあなたを拝み、あなたをほめうたい、み名をほめうたうであろう」と。〔セラ
7 神は大能をもって、とこしえに統べ治め、その目はもろもろの国民を監視される。そむく者はみずからを高くしてはならない。
17 わたしは声をあげて神に呼ばわり、わが舌をもって神をあがめた。


今日のリマは実に希望的なリマですね。
そうなのです。私たちの義は、義ではありませんが、神様の公義のみが正に義なのです。
私たちは神様が私たちを通じてどれほど多くの変化と恩恵を持ってきたかを、あまりにも簡単に忘れてしまいます。
そして私たちは自分の苦難と試練に、集中し易いです。
そのように問題だけに集中することで、我々は、神様との関係までも忘れてしまいます。
神様の偉大さと恩恵も忘れてしまうようになります。


多くのニューエイジの書籍では、我々自身の中で平和を見つけよと言っています。
しかし、我々の中では平和を見つけることができません。
私たちの中で救いを見つけられません。
しかし、主を眺めて主の自然を見ながら、私を創造された神様を改めて悟りつつ、私たちは平和を見い出すことができます。


神様に、私たちが向い合っている問題と試練を取り出して、'神様この問題は私の力で解決できません。
この問題を神様にお任せします。私は罪人ですが、私は主に、私が自力でこの世を生きていくことも、この問題を解決できないことも認め、全部下ろします。
主よ、私の意志ではないあなたのみ意がこの地に行われるようにしてください。
そのように私たちが神様の能力に、力に完全に委ねる時、神様は奇跡を降ろして下さるのです。


我々の自分自身を偶像化したい隠れた欲望を捨てて、私たちを内から蝕んでいる私たちの恐怖と怒りまでも全部、神様の前に下ろさなければならないというのです。
私たちの知識と力は、限界で壁でいっぱいです。
しかし、神様の能力は、絶対にそうではありません。


詩篇27章でそれで、主は私の羊飼いだから、私には全く不足するものがないと言われました。
私が私の欲望で、望むことはなにもないのです。
神様が願われるみ意が成されることを祈るのです。


世の中は私たちに、我々が望むことをしろと、それが正しいと言います。
そのように私たちは自分の運命を嘆き、自分の状況と現実がどれほど難しいかを、どれほど私たちが我々の夢と遠くにいるのかを、いつも偽りの世の中を見せようとします。
しかし、我々が神様の能力と力に頼れば、絶対私たちのそのような自己憐憫に、自分自身を閉じ込めません。


私たちが我々自身を偶像化することを止める時、私たちがこれ以上、無目的に漂流する邪悪な世の中を高めるものを下ろす時、私たちは神様が私たちの主人であることを取り戻し、平和と彼の恵みを得ます。
神様は完全で神聖で世の中のすべての能力があるし、世の中の全てを知っておられるし、私より私をもっとよく知っておられるし、数学と科学を利用して、この世の中を創造した方がまさに創造主神様です。


そしてそのように無限に大きな能力の神様が、一人子を送られ、私たちの罪を贖罪されて亡くなられたというのです。
それでヨハネ福音書15章で、この世で最も大きな愛は、他の人のために、自分の命を捧げることだと言ったのです。
主が私たちにそうされたのです。
そんなに大きな、私たちが想像すらできない大きな愛を下さったというのです。


私達は、自分自身を偶像化して、我々自身を信じろという世の中の教えで、私たちを結局は絶望に追い込んでいます。
しかし、我々が神様を求め、神様の能力に頼れば、私たちは自分自身を偶像化することができなくなります。
私たち自身がどれほど蟻位の小さな存在だということを悟り、神様がどれほど高いかを気付いた時、私たちは真実と向き合います。
この大きい大きい宇宙で、アリはどんなに小さな存在ですか。
いくらアリが、私はこんなに能力が優れていると言っても、我々がそれを見ると、どんなに可笑しいですか。


しかし、ピリポ書4章13節のように、"私は、私に能力くださる神様の中で、私はすべてのことができる"と言う通り、私たちが真にそれを信じて頼るなら、主が私にそのすべてができる能力をくださるというのです。


私たちは今日、能力の、全知全能の神様について話しています。
世間では我々の中で、私たちに内在されている力を探せという教えを受けました。
しかし、そのようなことはありません。私たちの中には汚い汚物と罪があるだけです。
私たちは主を通じて、神様が私たちが知ることを望まれているのを学ぶようになり、救いを受けることになるのです。
主の体を使われ、この地に来られた神様を、私たちが主を通してお会いすることになります。


人間というのは、実に嘆かわしいものです。
私たちは自己憐憫をしながら、それを楽しむこともできます。
これがおかしいと思うかもしれませんが、我々は我々自身の苦労と苦難を見ながら、‘見て、私がどんなに難しい状況にいるのか。ここに、血が流れるのが見える?"と言いながら、自己憐憫を人たちに見せるためにもっと多くの傷をつけたりもするというのです。
それもまた、自己偶像化の他の形だというのです。


しかし、我々が神様に頼る時、それは完全に違うのです。
私たちの力で?違います。
私たちは、主の力で全てを乗り越えて勝利できるというのです。
万の十字架の路程、七死復活、八段完成!!


人間の苦痛の歴史の中でも、役事され同役同行される神様を習い悟った時、私たちは神様に出会うというのです。
主が下さるみ言葉と教えを飲むと、私たちの霊的な喉の渇きが取れるというのです。
主だけが、主が下さる泉だけが、私たちの霊的な喉の渇きを無くすことができるというのです。
私たちが主のストーリー、主の歴史を知るようになった時、私たちは我々に救い下さったその主を知るようになった時、私たちははじめて、私たちが誰なのかを知るようになるというのです。


私たちが主の共同相続者であり、主の恩を着た者であることを知るようになるというのです。
主は私の羊飼いなので、私には不足するものがない。
私を青い草原に導いて下さることを信じているので、私たちは主に順従になりながら付いていくし、私たちが死の谷を歩くとしても、私に恐ろしさがないというのです。
私たちが、我々自分を信じながら死の谷を歩く時はどうでしたか?
どれほど怖かったですか?
どれほど寂しかったですか?
しかし、我々が死の谷を歩いても、主と一緒なら、全く恐れないようになるのです。
私たちが一人で歩いているように外からは見えるかもしれませんが、私たちは主と共に歩くことを学ぶというのです。


社会主義、共産主義左派たちはこう言うでしょう。
「私達が、私たちの一人の力で何かをやり遂げなければならない」と。
しかし、世の中には、一人でするということはありません。
まして私達が技術者になろうとしても、私たちが柔術の青いベルトになろうとしても、私たちには他の人の助けが必要というのです。


そして私たちが最も大変な世の中の、最も底に倒れている時にも、私たちと一緒におられる神様を信じる時、主は一緒にしてくださるというのです。
私たちが我々自分がいかに醜悪なのかを否認して、すべてを神様のせいにし、私たちの中に罪があるということも否定して生きて行ったら、その結末はあまりにも自明です。
私たちは孤独で暗い霊的な牢獄に閉じ込められるようになるのです。


私たちは多くの瞬間に、私達が成し遂げた業績と功労に捕われて酔って生きて行きます。
オリンピック重量挙げで世界記録を破った人でも、年を取るようになるし、後に認知症にかかるかもしれません。
私たちは、私たちの体が倒れる時、結局、主に頼るしかないというのです。


しかし、私達が我々の考えより、神のみ意と義をますます高めて、主の福音をもっと高め、彼のために生きていく時は、わたしたちは違う人になります。
私たちは違う創造物になります。
私たちはこれ以上、不安の霊にとらわれて生きる人でなく、愛と能力と健全な精神で生きるようになるというのです。
私たちの暮らしの領域が拡大されるし、私たちの霊的な悟りは、私達が想像できないくらいに広がります。


考えてみてください。
創造主神様と比べれば、アリのような小さな脳で、私たちがどれほどすごいか、私たちがどんなに大変かを測る私たちではなく、神様の創造の偉大さを徐々にわかって行くようになるというのです。
通りすぎるこの長い時間の中で、神様が私を創造されて、私を育てたその恩恵と愛に出会うようになるというのです。
そして、私の能力と私の力と我々の志を掲げる者でなく、神様の能力と力と神様の公義とみ意を掲げる人になるというのです。


(賛美を歌われています。すべての霊的な鎖を切り出せ。
(賛美です。)


私たちがバスケットボールを海水に強く沈めようとしたら、そのバスケットボールはどうなりますか?
再び跳ね返って上がってきますね。
しかし、私達がそれを神様に出した時、私たちは神様に頼るようになります。


神様は一人子を、我々の罪を贖罪する為に十字架に出してくださいました。
私たちが罪で死ぬしかない者なのに、そんな私のために、神様が主の命を出されたのです。
私たちがその血の代価の重さを知っているなら、私たちは別の人になります。


鉄の杖は、我々が得たのではありません。
鉄の杖の力は、神様が私たちに下賜されたものです。
私たちを信じて、責任感を持って私たちが鉄の杖を使用することを信じて許されたものです。
私たちが鉄の杖を使用できるから、我々があまりにも強大だと自惚れるようにくださったものではありません。
私たちをあまりにも愛されるからくださったのです。


主の杖とむちが、私たちを慰めるというのです(詩篇23章4節)
主は私の仇の目前で私に賞を下さり、油を私の頭に注ぎます。
敵は我々の周辺をうろうろしながら、私たちをどうすれば引き下げられるか、悩んでいるというのです。
主は私たちに、主に従えば、絶対人生が楽で高速道路だと約束されませんでした。
むしろその反対です。
もっと多くの敵が、我々に石を投げ、破滅を促します。


しかし、我々がその逼迫の真ん中でも、主が私たちに賞を下さることを知り、経験するので、私たちは我々の杯が溢れることを知っています。
神様の善と慈愛が、必ず私に伴うということを知っています。
その言葉は、私たちの人生に花道だけがあるという意味ではありません。
私たちに試練と患難と苦痛があっても、私たちの人生に神の善と慈愛さが伴うということを知るようになるというのです。


そして私が、エホバの家で永遠に生きるだろうというのです。 (詩篇23章6節)
そこはどこですか? エホバの家はどこですか?
神様の家は、主を信じて、従う者たちです。
聖書では、我々が生きている主の聖殿だと言いました。
私たちが主を信じて従う者のコミュニティの中で、生きるようになるというのです。


私たちが個人的に見れば、不完全で煩わしく感じられることもあるが、私たちはいつも記憶しなければなりません。
そのような面倒な部分を超えて、私たちが神様の聖殿である、その神様に従う子女の価値を、再び想起しなければならないというのです。


私たちは自分の偶像化をすることをやめなければなりません。
神様を私たちの唯一無二の主に立てて上げなければならないというのです。
世の中が私に反して、対敵するように感じる時、私たちは神様が私たちにどのように役事されたかを記憶しなければなりません。


イスラエルの民が前には紅海、後にはエジプト王の強力な軍隊がついてくる時のその状況は、明らかに皆さんが直面した状況より、もっと悪い状況だと、私は自信持って言えます。
しかし、その状況で神様に頼った時、どのようなことが起きたか、覚えてください!!


(ある聖歌を思い出そうとしていますが、よく思い出さないようです。)
この世の中で私がほしいものを求めようとしたが、探せなかったね!
ボションウィリアム・ゴスペル歌手が歌う賛美を探してるとおっしゃっていますね。)
JOYという賛美です。
(歌詞:私はもう主に会って、もうこれ以上、苦痛のうめきではなく、喜楽‐喜びがあるね)
(主は私に下さる喜楽、その喜楽は私がこれ以上説明できない。
その喜楽は、私の深い魂を撫でてくれる。主を知っているということは、私を最も自由にする。
主の愛を知っているということは、私を最も安全にする)


神様の力!、神様の能力!!!
神様のみ言葉は、あまりにも強力で、その能力が渇きません。
私たちの真のアイデンティティを教えてくれます。
何かの類人猿やオランウータンの後孫ではなく、私たちは、私達が主の代身者であり、相続者であり、神様の子供という事実を知ることになります。


(今日は賛美がたくさん出ますね。GO to the Rockという賛美のようです。
誰も私を信じない時、私はどこへ行くべきでしょうか?
私は盤石に行きます。別の所は沼だから。
それで私は、私が逃げ場が必要な時、盤石であられる主のもとに行きます。)
家は、絶対足が抜ける砂の上に建ててはいけません。
私たちは磐石の上に家を建てなければなりません。


(賛美の歌詞:私は盤石に行きます。建築家も捨てた角の石だったその磐石に行きます。私は、私の救いである主の磐石に行きます。)


私の力でなく、私の能力でもなく、主の能力に頼りながら、神様に行かなければならないというのです。
私は主の元に行くというのです。
主の中で喜びがあり、主の中で善の良心がある、信実があり、主の中で私の道があるというのです。


主は道であり、真理であり、生命だとおっしゃいました。
私を通じなくては、その誰も救いを得られないと言いました。
神様の栄光のために生きる、ということです。
私たちがそのように生きる時、私たちは能力者の中の能力者になるというのです。
アーメン アジュー